1975年〜1979年
クメール・ルージュ政権下の殺害
Killings under the Khmer Rouge
経緯
1975年4月17日、カンボジア共産党(クメール・ルージュ)がプノンペンを占領した。以後、民主カンプチアの名のもとで、カンボジアの人びとは、都市からの強制移動、強制労働、治安センターでの拘禁と処刑にさらされ、その支配は1979年1月初めに政権が倒れるまで続いた。1975〜79年の超過死亡について、近年の人口学の推計は中央値で190万人、95%区間で120万〜280万人である1。ECCC(カンボジア特別法廷)は、チャム人とベトナム系の人びとに対する殺害をジェノサイドと認定した2。

経過
1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペンを占領した。直後に市民の強制移動が始まり、ECCCは、少なくとも200万人が追い立てられたと認定した3。1975年9月から1977年初めには、東部などから少なくとも30万〜40万人が、同様の過酷な条件で強制移動させられた3。
1976年3月、ドゥイ(カン・ゲク・イウ)がS-21(トゥール・スレン)の所長となり、1979年初めまで務めた4。政権は、1979年1月初め、ベトナム軍と救国戦線に追われて崩壊した5,4。
被害
殺されたり、飢えや病、過労で亡くなったりしたのは、カンボジアの人びとである。強制移動で都市から追われた人びと、協同農場やダム、空港の工事現場で働かされた人びと、治安センターに拘禁された人びとがいた3,2。強制労働の現場について、事件002/02の一審は、劣悪な条件だけでなく故意の殺害もあったと認定している2。
S-21は、プノンペンにあった拘禁・拷問・処刑の中心施設である2,4。事件001は、S-21とチュンエク、プレイサー(S-24)で少なくとも12,272人が処刑されたと認定した4。事件002/02の一審は、S-21周辺とチュンエクについて、少なくとも11,742人とした2。
カンボジア資料センター(DC-Cam)は、1995年から2007年にかけて現地を踏査し、GPSで遺構を記録した。大量墓地19,733か所、刑務所196か所、記念碑81か所である。これは遺構の数で、死者数の推計ではない6。
ECCCがジェノサイドと認定した範囲
ECCCは、チャム人(民族・宗教集団)とベトナム系の人びと(民族・国民・人種集団)に対するジェノサイドを認定した2。
チャム人について。1975年9月から10月、コー・パールとスヴァイ・クレアンでの反乱ののち、東部のチャム人が中部(旧北部)の地帯へ分散して移され、信仰、言語、服装も制限された2。1977年には、ワット・アウ・トラクオン治安センターで、カンメアス郡などのチャム人の多くが処刑された。1978年には、クロチュマール郡のチャム人がトレア村の治安センターに連行され、チャム人と確認された者は処刑され、そうでない者は放免された2。殺された人数について、ECCCは確定した数を認定できなかったが、大規模に殺されたとしている2。
ベトナム系の人びとについて。1975年から1976年末までは、国外へ追放する政策がとられた。1977年4月以降は、集団としての破壊に転じたと認定されている2。1977年から1978年には、コンポンチュナン、シエムリアプ(ワット・クサック)、クラチェ、スヴァイリエンなどで、大規模で組織的な殺害があったと認定された2。
この二つの集団以外の殺害は、ジェノサイドとしては訴追されていない。仏教徒や、旧クメール共和国の官吏・軍人とその家族への殺害は、人道に対する罪としての殺害と迫害にあたるとされた2。
裁きと記録
2007年、ヌオン・チア(共産党副書記)とキュー・サムファン(国家幹部会議長)が逮捕された3。
事件001で、S-21の所長だったドゥイは、2010年7月26日の一審で35年(不法拘禁の救済として5年減)を言い渡された4。のち終身刑が確定し、ドゥイは2020年9月2日に拘禁中に死去した5。事件002/01の一審は、2014年8月7日、ヌオン・チアとキュー・サムファンに、人道に対する罪で終身刑を言い渡した3。
事件002/02の一審は、2018年11月16日、両名を、人道に対する罪、ジュネーブ条約の重大な違反、ベトナム系の人びとに対するジェノサイドで有罪とした。ヌオン・チアには、チャム人に対するジェノサイドの責任(上官責任)も認めた2,5。一審は、ヌオン・チア自身にジェノサイドの意図があったとも、ジェノサイドが行われていると知っていたとも認めず、知る理由があったのに防がなかった責任を問うた。キュー・サムファンは、チャム人に対するジェノサイドの責任を問われなかった2。
ヌオン・チアは2019年8月4日に93歳で死去し、控訴審は打ち切られた。2022年9月22日、最高裁は、キュー・サムファンの有罪(ベトナム系の人びとに対するジェノサイドを含む)を確定させた5。事件002の被告だったイエン・サリ(2013年死去)とイエン・チリト(2015年に裁判不適格とされ死去)は、死去により訴追が終わった2。
死者の数をどう数えるか
ECCCの判決は、全国の死者の総数を認定していない2。推計は研究ごとに違い、数えている範囲も、1970年からの内戦期を含むものと、1975年から1979年に限るものとがある。範囲の違う数は、足さず、平均もしない。
人口学者のパトリック・ヒューヴリーヌは、2001年に、人口の再構成によって、1970〜79年の超過死亡を約252万人(パラメータを動かすと117万〜342万人)とした。そのうち1975〜79年のクメール・ルージュ期を約220万人とし、約110万人が暴力による死だったとした7。2015年には、確率的シミュレーションで、1975〜79年の超過死亡の中央値を190万人(人口の約21%)、95%区間を120万〜280万人と推計した1。
このほかに、研究者らによる約100万人という推計があり、1979年以降の親ベトナム政権は約300万人と主張した。ヒューヴリーヌは、1990年代後半に人口学者・歴史家の推計が150万〜200万人へ収れんしたと書くが、単独の推計の不確かさは大きいとも述べる7。
S-21の数は、全国の推計とは別に扱う。ECCCが認定した少なくとも12,272人(事件001)と11,742人(事件002/02)は、処刑された人の数である。歴史家デーヴィッド・チャンドラーの1万4000人余は、S-21に送られた囚人の総数で、数えている対象も使った名簿も違う4,2,8。
死者数の諸説
| 推計した人・機関 | 推計 | 算定の根拠・数えた範囲 |
|---|---|---|
| ECCC 事件002/02 一審判決(2018年)2 | 少なくとも11,742人 | S-21周辺とチュンエクで処刑された人数の裁判認定。全国の死者数ではなく、ほかの数とは足さない。 |
| ECCC 事件001(2010年)4 | 少なくとも12,272人 | S-21、チュンエク、プレイサー(S-24)で処刑された人数。DC-Camの解説書が判決を要約している。全国の死者数ではなく、ほかの数とは足さない。 |
| デーヴィッド・チャンドラー(2000年)8 | 1万4000人余 | 保存された文書にもとづく、S-21に送られた囚人の総数。処刑された人の数ではなく、全国の死者数でもない。 |
| 研究者らの推計(ヒューヴリーヌ2001年の要約)7 | 約100万人 | 1980年代から90年代の人口統計・資料による推計。1975〜79年。 |
| パトリック・ヒューヴリーヌ(2015年)1 | 中央値190万人(95%区間 120万〜280万人) | 確率的シミュレーション。1975〜79年の超過死亡で、人口の約21%。暴力以外の死も含む。 |
| パトリック・ヒューヴリーヌ(2001年、1975〜79年)7 | 約220万人 | 人口の再構成による1975〜79年の超過死亡(内戦期などを差し引いた)。うち暴力による死は約110万人。1970〜79年の数とは混ぜない。 |
| パトリック・ヒューヴリーヌ(2001年、1970〜79年)7 | 約252万人(117万〜342万人) | 人口の再構成による1970〜79年の超過死亡で、内戦期を含む。1975〜79年の数とは混ぜない。 |
| 1979年以降の親ベトナム政権の主張(ヒューヴリーヌ2001年の要約)7 | 約300万人 | 政権の主張で、研究者の推計ではない。1975〜79年。 |
出典
- Patrick Heuveline, "The boundaries of genocide: Quantifying the uncertainty of the death toll during the Pol Pot regime in Cambodia (1975-79)", Population Studies 69(2), 2015, pp.201-218, DOI 10.1080/00324728.2015.1045546 https://ideas.repec.org/a/taf/rpstxx/v69y2015i2p201-218.html(要確認)
- ECCC 一審裁判部「事件002/02 判決要旨」2018年11月16日(Case File No. 002/19-09-2007/ECCC/TC)。DC-Camが公開している写し https://d.dccam.org/Archives/Chronology/pdf/Summary_of_Judgement_Case_002-02_EN.pdf(要確認)
- ECCC, Case 002/01 Factsheet, 2016 https://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/publications/Case%20002-01%20factsheet%20English.pdf(確実)
- DC-Cam, The Duch Verdict: Khmer Rouge Tribunal Case 001, 2010 https://d.dccam.org/Publication/Outreach/pdf/Case_001_EN.pdf(確実)
- ECCC, The Court Report 2018-2022 https://www.eccc.gov.kh/sites/default/files/publications/ECCC%27s%20Court%20Report%202018-2022%20-%20ENG.pdf(確実)
- DC-Cam, "Mapping of Cambodia Killing Fields (1975-1979)" https://d.dccam.org/Projects/Maps/Mapping_1975-79.htm(確実)
- Patrick Heuveline, "The Demographic Analysis of Mortality Crises: The Case of Cambodia, 1970-1979", in Forced Migration and Mortality, National Academies Press, 2001, pp.102-129 https://www.nationalacademies.org/read/10086/chapter/7(確実)
- David Chandler, Voices from S-21: Terror and History in Pol Pot's Secret Prison, University of California Press, 2000 https://www.ucpress.edu/books/voices-from-s-21/paper(要確認)