1942年2月〜3月
シンガポール華僑粛清
Sook Ching massacre
経緯
1942年2月15日にシンガポールを占領した日本軍は、18日ごろから、中国系の18〜50歳の男性を検問所に集め、「抗日分子」とみなした人びとを海岸や人里離れた場所に連れ出して射殺した。殺されたのは裁判も公開の手続きも経ない中国系の住民で、家族の多くが身内を失った。この作戦は、上陸前に第25軍が立てた計画にもとづく計画的なものだったと、林博史の研究は示す1。死者数は日本側の記録の数千から華人社会の推計の10万まで大きく開き、戦後のイギリスの戦犯裁判では責任者が有罪となった2。

背景
1942年2月15日、英軍がシンガポールで降伏し、日本の占領が始まった3。林博史の研究によれば、中国系住民への対処は上陸前に第25軍が立てた計画にあった。1941年12月28日ごろに軍政部が作った「華僑工作実施要領」には、従わない者は生かしておかないという内容が含まれていた1。
林は、満州事変以来の「現地処分」、つまり裁判を経ない処刑の方式が中国各地の作戦で用いられ、それがシンガポールに引き継がれたと分析する(林の解釈)1。
経過
2月17日の夜、河村三郎がシンガポール守備司令官に任じられた。18日、第25軍司令官の山下奉文が河村に掃討を命じ、参謀長の鈴木宗作と参謀の辻政信も指示を与えたとされる。河村は憲兵隊長の大石正幸と協議し、粛清の計画ができた1。
同じ18日から、中国系の18〜50歳の男性に、検問所への出頭が命じられた。検問を通った者は「検」の印か「良民証」を受け、通らなかった者は拘束されて各地へ運ばれ、射殺された3,4。市街地では主に憲兵隊が、2月末からは郊外で近衛師団が検問を担当した1。作戦は2月21日から3月4日までとする記述が多い2。
5月28日付の第25軍の情報記録第62号は、爆撃と粛清による行方不明者を11,110名とするが、根拠の記載はない1。6月27日には、華僑協会会長の林文慶が山下に5,000万ドルの献金の小切手を渡した。協会が集められたのは2,500万ドルで、残りは横浜正金銀行から借りた4。
被害
殺害はシンガポールにとどまらず、マレー半島の各地でも行われた1。林博史は、そのことが日本社会に知られたのは、自分が部隊の文書を発見した1980年代末以降だと述べる1。
1955年には、許雲樵らがシンガポールとマラヤの犠牲者の名簿を発表し、約7,100名の名が挙がった4。
裁きと記録
戦後、イギリスがシンガポールで戦犯裁判を開き、1946年1月21日に始まって1948年3月までに131件を扱った。粛清の主裁判は1947年3月10日から4月2日に行われ、7人の将校が被告となり、全員が有罪となった。河村三郎と大石正幸は死刑、ほかの5人は終身刑だった2。
辻政信は逮捕されず、1948年に日本へ戻った。裁判では被告側が辻ひとりに責任を負わせようとした。林は、辻の役割は大きいが過大に評価されており、山下奉文自身が積極的な推進者だったとみる1。
死者の数をどう数えるか
死者数は、日本軍側の記録の数千から、華人社会の推計の10万まで大きく開く。河村の日記には5,000とあり、前述の情報記録第62号には行方不明者11,110とあるが、いずれも根拠の記載がなく、日記の数は当事者自身の申告である1。シンガポール国立図書館委員会の記事は、日本側の見積もりを約5,000とし、実際はその8〜10倍とする文もあると記す3。
戦後の供述で、元日本軍人は、計画は5万人で、停止命令までにその半数、約2万5,000人に達したと述べた。この数は最もよく引かれるとされる2。シンガポールでは2万5,000〜5万が広く想定され、華人社会の推計は約10万である4。許雲樵らの名簿の約7,100名は、名前が集められた人数で、総数ではない4。
シンガポールだけか、マラヤを含むか、爆撃などの死者を含むかで範囲が違うため、足したり平均したりすることはできない。どの数も決め手に欠け、確定していない1,2,4。
補償・記念と論争
1962年2月、シグラップで粛清の集団墓地が見つかり、中華総商会会長のKo Teck Kinらが、日本政府に「血債」(命の債務)への補償を求めた。日本の領事館は3月、補償の請求は1951年のサンフランシスコ平和条約で解決済みとする声明を出した。1966年10月25日、日本政府はシンガポール政府に総額5,000万ドルを支払うことで合意した4。
補償金の受け皿を、特定の民族の遺族でなく政府(国民全体)とする方針は、リー・クアンユー政権の主導で決まった。記念碑も、華人社会が粛清の犠牲者のために始めた運動が、華人、マレー人、インド人、ユーラシア人の4民族すべての占領期の死者を悼むものに変えられた。1966年11月に遺骨606壺が埋葬され、1967年2月15日、民間人戦争記念碑の除幕式にリー首相が出席した4。
日本側の一部の著述は、華人義勇軍が日本軍に損害を与えた、華人が英軍に情報を流した、治安が悪化して暴動の恐れがあった、辻の独断だった、といった理由を挙げる。林は、計画が上陸前に立てられていたことや、憲兵将校の回想が治安の悪化や情報流出を否定していることなどから、これに反論している1。事件そのものは、イギリスの戦犯裁判と日本軍自身の記録で裏づけられている1,2。
死者数の諸説
| 推計した人・機関 | 推計 | 算定の根拠・数えた範囲 |
|---|---|---|
| 河村三郎の日記(1942年)1 | 5,000 | 守備司令官だった当事者の日記で、シンガポールの粛清が範囲。根拠の記載はなく、当事者自身の申告。 |
| 日本側の見積もり(戦後)3 | 約5,000 | 日本側の公式の推定とされる。根拠の記載はない。同じ記事は、実際はその8〜10倍とする文もあると記す。 |
| 許雲樵ほか(1955年)4 | 約7,100名分の名 | 華人社会が集めた犠牲者名の名簿。シンガポールとマラヤが範囲。死者数の推計ではなく、名前が集められた人数。 |
| 第25軍「情報記録第62号」(1942年5月)1 | 11,110 | 軍の秘密文書。爆撃と粛清による行方不明者の数で、根拠の記載はない。 |
| 元日本軍人の戦後の宣誓供述2 | 計画は5万人、停止命令までにその半数(約2万5,000人) | 戦後の供述書で、最もよく引かれる数とされる。シンガポールが範囲。 |
| シンガポールで広く想定される数(2011年の整理)4 | 2万5,000〜5万 | 研究と報道を整理したもの。シンガポールが範囲。 |
| 華人社会の推計(戦後)4 | 約10万 | 華人側の推計。シンガポールが範囲。 |
出典
- 林博史 "Massacre of Chinese in Singapore and its Coverage in Postwar Japan"(ウェブ掲載版) https://corregidor.org/mnl/Hayashi/Hayashi_Hirofumi_01.htm(要確認)
- Timothy Pwee, "A War Crimes Trial Snapshot," BiblioAsia 11(4), Jan-Mar 2016, National Library Board Singapore https://biblioasia.nlb.gov.sg/vol-11/issue-4/jan-mar-2016/photographs-singapore-war-crimes-trial/(確実)
- Goh Sin Tub, "The Sook Ching," BiblioAsia, 1 January 2017, National Library Board Singapore https://biblioasia.nlb.gov.sg/vol-12/issue-4/jan-mar-2017/the-sook-ching/(確実)
- Lim Tin Seng, "From Exclusive to Inclusive Remembrance: The Civilian War Memorial," BiblioAsia 7(2), 7 July 2011, National Library Board Singapore https://biblioasia.nlb.gov.sg/vol-7/issue-2/jul-2011/civilian-war-memorial-remembrance/(確実)