1937年12月〜1938年1月
南京事件
Nanjing Massacre
経緯
1937年12月13日、日本軍は中華民国の首都・南京を占領した。その前後の数週間、南京とその周辺で、中国軍の捕虜や敗残兵、軍服を脱いだ兵と見なされた人びと、そして市民が日本軍に殺され、強姦や略奪、放火も相次いだ。多くの住民は市内の国際安全区に避難していたが、被害はそこにも及んだ。日本政府は非戦闘員の殺害や略奪があったことは否定できないとする一方、被害者数には諸説あるとしており、研究者の推計や戦後の裁判の認定は、数万から30万以上まで分かれる1,2。
背景
日本海軍は1937年8月15日以降、南京への渡洋爆撃を始めていた2。11月15日には日本軍の第10軍が独断で追撃を決め、中支那方面軍司令官の松井石根もこれに同調して、南京への進撃が始まった。12月1日、方面軍に南京攻略の命令が下る2。
中国側では政府の高官が南京を離れ、残った住民の多くが、外国人らが運営する南京国際安全区(難民区)に身を寄せた。中国軍は日本軍に利用されないよう、多くの建物を焼き払った2。日本軍の攻略要領には軍紀を守る規定があったが、守られなかった。日中歴史共同研究の日本側論文は、その背景として、宣戦布告のない「事変」で捕虜の扱いの指針も占領後の住民保護の計画もなかったこと、憲兵が少なかったこと、補給を考えない攻略のために略奪が起きて軍紀が緩んだことを挙げている2。
経過
12月10日、日本軍は南京の総攻撃を始め、最初の部隊は12日から城壁を越えて城内に入った。防衛の指揮官だった唐生智は、蒋介石から撤退の指示を受け、12日に各部隊へ包囲を突破して撤退するよう命じた。だが計画どおりに撤退できた部隊はわずかで、中国軍は混乱した。多数の敗残兵が軍服を脱いで便衣に着替え、難民区に逃れた2。
13日、日本軍は南京を占領した。この日以後、日本軍は捕虜や敗残兵、便衣兵と見なした人びと、そして一部の市民を、集団で、あるいは個別に殺害した。強姦、略奪、放火もあった2。
被害と、伝わった情報
安全区の運営にあたった国際委員会は、日本大使館に抗議を重ねた。この抗議を通じて、外務省にも暴行の情報は届いていた2。1938年1月4日には、参謀総長の閑院宮載仁の名で、松井司令官に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」という異例の要望が出された。1月6日、外務省東亜局長の石射猪太郎は日記に、上海からの来信が南京での日本軍の暴状、つまり略奪と強姦を詳しく伝えていると書いた2。
被害を数えようとする試みもすぐに始まった。1938年3月から6月にかけて、金陵大学の社会学者ルイス・スマイスは、国際救済委員会のもとで、南京周辺の約50世帯に1世帯を抜き出す調査を行った。のちに『南京地区における戦争被害』としてまとめられた調査には、市街と近郊の市民2,400人が日本軍に殺され、戦闘による死者850人はこれとは別に数えたとある3,6。
裁きと記録
戦後、この事件は二つの法廷で裁かれた。極東国際軍事裁判(東京裁判、1946〜48年)は南京での残虐行為を審理し、判決は犠牲者を20万人以上とした。松井石根は責任を問われて死刑となった2。中国では1947年、南京戦犯軍事法廷が第6師団長だった谷寿夫の責任を問うて死刑とし、犠牲者を30万人以上と認定した2。
2010年1月には、日本と中国の研究者による日中歴史共同研究委員会が報告書を公表した。日本側の論文は「南京攻略と南京虐殺事件」の項を設けて、この事件を論じている2。
死者の数をどう数えるか
死者の数は、数万から30万以上まで開きがある。日本側の論文は、その理由を、「虐殺」つまり不法な殺害をどう定義するか、どの地域と期間を対象にするか、埋葬記録や人口統計などの資料をどう検証するかの違いに求めている2。城壁の内側だけを数えるのか、近郊の農村や長江沿いまで含めるのか、投降した兵の処刑を不法と見なすのかによって、数は変わる。
たとえば秦郁彦は、不法殺害の範囲を絞り、最大の見積もりとして約4万人を示した2,5。笠原十九司は、当時の南京特別市内で、十数万人以上、20万人近いかそれ以上と見る4,7。日本側の研究者の推計の幅について、共同研究は、20万人を上限として4万人、2万人などがあると整理する2。これらは数える範囲が違うため、足し合わせることも、平均することもできない。違いは資料と範囲の取り方にあり、事件があったかどうかの違いではない2,4,5。
政府の見解と、いまの論争
外務省は、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪があったことは否定できないとし、被害者の人数には諸説あって政府としてどれが正しい数かを認定するのは困難だという立場をとる1。中国の見解は、南京戦犯軍事法廷の30万人以上という認定に依拠している2。呼び方も、日本側の論文は「南京虐殺事件」、外務省は「南京事件」、中国では「南京大屠殺」と分かれる。
事件そのものを否定する言説が、国内外にあることも知られている。これに対し、東京裁判と南京戦犯軍事法廷の判決、そして日本政府の見解は、いずれも非戦闘員の殺害などがあったことを認めている1,2。
死者数の諸説
| 推計した人・機関 | 推計 | 算定の根拠・数えた範囲 |
|---|---|---|
| ルイス・スマイス(金陵大学)の抽出調査(1938年)3,6 | 市民2,400人が日本軍に殺された | 南京周辺の約50世帯に1世帯を抜き出した調査。市街と近郊の市民が対象で、戦闘による死者850人は別に数えている。 |
| 秦郁彦(1986年、2007年増補版)2,5 | 約4万人 | 戦闘詳報・埋葬記録・外国資料などの検討にもとづく。日本軍の不法殺害に範囲を絞り、最大の見積もりとして示す。 |
| 日本側の研究(日中歴史共同研究の日本側論文による整理、2010年)2 | 20万人を上限に、4万人、2万人など | 研究者ごとの推計の幅を整理したもの。「虐殺」の定義、対象とする地域・期間、資料の検証の違いが幅を生む。 |
| 笠原十九司(1997年、新版2025年)4,7 | 十数万人以上、20万人近いかそれ以上 | 日本と中国双方の資料からの推算。当時の南京特別市内を対象とする。 |
| 極東国際軍事裁判の判決(1948年)2 | 20万人以上 | 法廷での証言と書証の認定。南京とその周辺での犠牲者の数で、松井石根個人についての判決文では10万人以上とされる。 |
| 南京戦犯軍事法廷(中国、1947年)2 | 30万人以上 | 法廷での認定。日本軍による虐殺の犠牲者の数で、中国の見解はこの判決に依拠している。 |
出典
- 外務省「歴史問題Q&A」問6「『南京事件』に対して、日本政府はどのように考えていますか。」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/(確実)
- 『第1期「日中歴史共同研究」報告書』外務省、2010年。日本側「近現代史」第2章「日中戦争—日本軍の侵略と中国の抗戦」(波多野澄雄・庄司潤一郎)4)南京攻略と南京虐殺事件、および注 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100512962.pdf(確実)
- Lewis S. C. Smythe, War Damage in the Nanking Area, December 1937 to March 1938, Nanking International Relief Committee, 1938 https://divinity-adhoc.library.yale.edu/nanking/Smythe.html(要確認)
- 笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997年/同『南京事件 新版』岩波新書、2025年 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I034155883(確実)
- 秦郁彦『南京事件:「虐殺」の構造』中公新書、1986年(増補版、中央公論新社、2007年) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009081717(要確認)
- 香港中文大学「How Many Killed in the Nanjing Massacre」(スマイス調査の数値の解説ページ) https://humanum.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMVNO.html(確実)
- 「『大虐殺の歴史、直視を』『南京事件 新版』著者の笠原十九司さんに聞く」中日新聞Web、2025年9月 https://www.chunichi.co.jp/article/1136280(確実)