1915年〜1923年

アルメニア人虐殺

Armenian genocide

経緯

1915年4月24日、オスマン帝国政府は首都イスタンブルでアルメニア人の指導層を逮捕し、5月からは帝国内のアルメニア人を、戦線から遠い地域も含めて強制的に移送した。移送の途上と、行き先のシリア・メソポタミアの砂漠地帯で、アルメニア人は銃殺、飢え、渇き、病で多数が死んだ。戦前に約150万人いたとされるアルメニア人のうち、研究者の推計では最低でも約66万人、多くの推計では100万人超が死んだ1,2。研究者の圧倒的多数と、ドイツや米国などの議会・政府はこれをジェノサイドと呼ぶが、トルコ政府はこの語を認めていない2,3。

デイル・ゾールのアルメニア人虐殺追悼施設の内部にあった浮き彫り
デイル・ゾールの追悼施設の内部(2005年撮影)Tom Horton (Further to Fly)(2005)/CC BY 2.0/Wikimedia Commons

背景

第一次世界大戦のさなか、オスマン帝国は統一進歩委員会(青年トルコ)の政権のもとにあった。帝国のアルメニア人は約150万人とされる1。

経過

1915年4月24日、イスタンブルでアルメニア人の指導者約240人が逮捕され、アナトリアへ送られた。この日は後に、虐殺の始まりの日として記念されている1。5月24日、英・仏・露の3国は共同宣言を出し、トルコの「人道と文明に対する罪」について、オスマン政府の閣僚と関与した官吏を個人として責任を問うと警告した4。5月27日、オスマン内閣は一時的な移送法(テフジル法)を決めた5。5月以降、移送は戦線の近くでない地域にも広がり、アルメニア人は砂漠地帯へ行進させられた1。

7月10日、駐オスマン米大使のモーゲンソーは国務長官への電報で、アルメニア人への迫害は平和なアルメニア人住民を根こそぎにしようとする組織的な試みであり、首都からの恣意的な命令によると報告した6。移送の途上と、行き先の砂漠地帯で、アルメニア人は銃殺、飢え、渇き、病で多数が死んだ。米ホロコースト記念博物館は、虐殺の期間を1915年春から1916年秋とする1。

被害

被害を受けたのはアルメニア人だけではない。ドイツ連邦議会の決議は、アラム・アッシリア人、カルデア人ら他のキリスト教徒も、移送と虐殺を受けたと記す7。期間についても、米ホロコースト記念博物館は1915〜16年とするが、ケヴォルキアンの研究書は1915〜1923年を扱っている1,8。

移送の行き先とされたデイル・ゾールなどの砂漠地帯は、現在のシリアにある1。東部アナトリアのエルズルム、ヴァン、トラブゾンなどは、移送の出発地域だった9。

裁きと認定

1919年7月5日、オスマン軍法会議は、タラート(内相、のち大宰相)、エンヴェル(陸相)、ジェマル(海相)、ナーズム博士の4人に、欠席のまま死刑を宣告した。判決は、ボアズリヤン、ヨズガト、トラブゾンでの虐殺を、統一進歩党の指導者が組織したと認定した9。

1944年、法律家のラファエル・レムキンが「ジェノサイド」の語を作る際、アルメニア人の虐殺を例に挙げたと、国際ジェノサイド研究者協会は記す1,2。1985年の国連ウィテカー報告は、1915〜16年のオスマンによるアルメニア人虐殺を、ジェノサイドの例に挙げた10。1997年には国際ジェノサイド研究者協会が、ジェノサイドと認める決議を全会一致で採択した2。2003年には国際移行期正義センター(ICTJ)が、出来事は全体として条約上のジェノサイドの要件を満たすとする法的分析を公表した。ただし、これは法的な請求を生まないとしている11。

2016年6月2日、ドイツ連邦議会は、アルメニア人らへの虐殺をジェノサイドと位置づける決議を、反対1・棄権1で可決した。決議は、同盟国だったドイツ帝国が虐殺を止めなかった共同責任にも触れている7。米国では、2019年10月29日に下院が決議でアルメニア人のジェノサイドを確認し、2021年4月24日にはバイデン大統領が声明でこれをジェノサイドと呼んだ12。

死者の数をどう数えるか

死者の数は、何を数えるかで変わる。「虐殺で殺された人」と「人口の減り」は範囲が違う数で、足し合わせることも、平均することもできない。米ホロコースト記念博物館は、1915年春から1916年秋のアルメニア人について、最低約66.4万人、最大約120万人とまとめる1。国連のウィテカー報告は少なくとも100万人とし10、国際ジェノサイド研究者協会は100万人超とする2。

研究書では、アクチャムが1915年について約100万人13、スニーが、現在のトルコ領のアルメニア人の人口が約9割減り、100万人超が死んだとし14、ケヴォルキアンが最大約150万人とする8。ドイツ連邦議会の決議(2016年)は、100万人を超えるアルメニア人が犠牲になったと記す7。

記憶と論争

トルコ外務省は、この出来事を「1915年の出来事」と呼び、国際法上のジェノサイドの要件は満たさないとする立場をとる。死者数は示さず、両側が犠牲を出した悲劇とし、トルコとアルメニアの歴史家による共同委員会を提案している。また、トルコ側は、ロシアと結んだアルメニア人の反乱への対応と、戦時の「移送」だったと説明する3。トルコ宗教財団のイスラーム百科事典の項目は、移送に伴う死者数に大きな幅をもたせて、厳密な数は出せないとし、ムスリムの死者が上回るとも強調している5。これは出来事の評価の否定を含む立場である。

これに対し、国際ジェノサイド研究者協会は、2005年のエルドアン首相あての公開書簡で、独立した研究者の圧倒的な意見は、ジェノサイドと認めることだと伝えた2。ICTJの法的分析も、要件を満たすと結論した11。研究者のあいだで、出来事があったかどうかは争われていない。

戦時の「移送」だったという説明に対し、研究は、移送が戦線の外にも及んだこと、首都からの命令だったことを根拠に、組織的な破壊の意図を認める1,6。認定は国によって分かれ、ドイツや米国が認める一方、トルコは拒んでいる3,7,12。

死者数の諸説

推計した人・機関推計算定の根拠・数えた範囲
米ホロコースト記念博物館(百科事典、現行版)1最低約66.4万人、最大約120万人研究の総括。アルメニア人、1915年春〜1916年秋。戦前の人口は約150万人。
タネル・アクチャム(2006年)13約100万人公文書にもとづく研究書。アルメニア人、1915年についての数で、出版社のあらすじによる。
国連ウィテカー報告(1985年)10少なくとも100万人研究の総括。アルメニア人、1915〜16年。人口の半分を大きく超える可能性があるとする。
国際ジェノサイド研究者協会(2005年)2100万人超研究者団体の見解。アルメニア人。
ドイツ連邦議会(2016年)7100万人超決議文の表現。アルメニア人、1915〜16年。
ロナルド・G・スニー(2015年)14100万人超(人口が約9割減る)現在のトルコ領のアルメニア人。出版社の紹介文による。
レイモン・ケヴォルキアン(2011年)8最大約150万人公文書にもとづく研究書。アルメニア人、1915〜1916年(書は1915〜1923年を扱う)。紹介文による。

出典

  1. 米ホロコースト記念博物館「アルメニア人虐殺(1915〜16):概説/詳説」 https://encyclopedia.ushmm.org/content/en/article/the-armenian-genocide-1915-16-overview(確実)
  2. 国際ジェノサイド研究者協会(IAGS)からエルドアン首相への公開書簡、2005年6月13日 https://genocidescholars.org/wp-content/uploads/2019/04/Turkish-State-Denial-Open-Letter.pdf(確実)
  3. トルコ外務省「トルコとアルメニアの1915年の出来事をめぐる論争」 https://www.mfa.gov.tr/controversy-between-turkey-and-armenia-about-the-events-of-1915.en.mfa(確実)
  4. 英・仏・露の共同宣言、1915年5月24日(国務省電報1915年5月29日、RG59 867.4016/67) https://www.armenian-genocide.org/Affirmation.160/current_category.7/offset.700/affirmation_detail.html(要確認)
  5. 「Tehcîr」『TDV イスラーム百科事典』トルコ宗教財団 https://islamansiklopedisi.org.tr/tehcir(確実)
  6. 駐オスマン大使モーゲンソーから国務長官への電報、1915年7月10日(Foreign Relations of the United States, 1915, Supplement) https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1915Supp/d1400(確実)
  7. ドイツ連邦議会、決議「アルメニア人らへの虐殺の想起と追悼」Drs. 18/8613、2016年6月2日採択 https://dserver.bundestag.de/btd/18/086/1808613.pdf(確実)
  8. Raymond Kévorkian, The Armenian Genocide: A Complete History, I.B. Tauris, 2011, ISBN 9781848855618 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I023070684(要確認)
  9. オスマン軍法会議の判決、1919年7月5日。官報 Takvimi Vekayi 3604号(1919年7月22日)所載。英訳は Armenian Review 24 (1971) https://www.armenian-genocide.org/Affirmation.237/current_category.50/affirmation_detail.html(要確認)
  10. 国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会、B. Whitaker「ジェノサイド罪の防止・処罰に関する改訂・更新報告」E/CN.4/Sub.2/1985/6、1985年7月2日 https://www.armenian-genocide.org/Affirmation.169/current_category.6/affirmation_detail.html(要確認)
  11. 国際移行期正義センター(ICTJ)の法的分析、トルコ・アルメニア和解委員会あて、2003年2月(要約) https://www.armenian-genocide.org/Affirmation.244/current_category.5/affirmation_detail.html(要確認)
  12. 米下院決議 H.Res.296(2019年10月29日)と、バイデン大統領の声明(2021年4月24日) https://www.presidency.ucsb.edu/documents/statement-armenian-remembrance-day-13(要確認)
  13. Taner Akçam, A Shameful Act: The Armenian Genocide and the Question of Turkish Responsibility, Metropolitan Books, 2006, ISBN 978-0-8050-7932-6 https://publishersweekly.com/9780805079326(要確認)
  14. Ronald Grigor Suny, "They Can Live in the Desert but Nowhere Else": A History of the Armenian Genocide, Princeton University Press, 2015, ISBN 9780691147307 https://press.princeton.edu/books/hardcover/9780691147307/they-can-live-in-the-desert-but-nowhere-else(要確認)